「殺人論」小酒井不木

先日、長らく行きたかった京都の糺の森にて毎年行わなれている下鴨納涼古本まつりに大学時代の友人と後輩の三人で行ってきた。私は5年半にも及ぶ怠惰な大学生活を京都で送ってきたのだが、この催しにはとんと縁がなかった。それは大学時代の私が本に対しての情熱が薄かったこととひたすら出不精な生活を送っていたことが最大の理由であるが、左京区の人間がこの例年の催しを隠匿する傾向にもその原因が少しはあると思う。左京区人は毎年、まつりの最終日の昼過ぎに思い出したようにSNSに古本まつりの成果を報告するのだ。我々西側に暮らす人間は何度その投稿を見て、地団駄を踏んだことか!

さて、こんなどうしようもない偏見に満ちた思い出語りはどうでもいい。古本まつりは噂に聞いていた通り、実に楽しいまつりであった。見渡す限りに京都の古書店のテントが立ち並び、それぞれが本棚やワゴンにぎゅうぎゅうに本を陳列し、ビール片手の老店主やバイトの大学生くんたちが客を待ち構えている。その量たるや圧倒的で膨大な文字情報から会場を一周するのが体力と時間の限界であった。そんな中で数冊の本を購入したわけだが、きっとまだまだ出会えなかった本がたくさんあっただろう。いつかまた京都に暮らすことがあれば数日通って本を探し漁りたい。

くどくど回り道の末に本題の殺人論である。何軒目かのテントで本書を手に取ってのはそのはまずそのシンプルに強烈なタイトルが目につき、次に作者の名前が引っかかったからだ。

小酒井不木の名前は創元推理文庫の日本探偵小説全集の第1巻で黒岩涙香甲賀三郎とともに纏められているのは知っていた程度であった。代表作は人工心臓、恋愛曲線、疑問の黒枠、闘争など。残念ながらどれもあらすじすら知らなかった。

調べてみると甲賀三郎が「単純にトリックの面白さを追求した探偵小説」を本格と称したのに対し、「精神病理的、変態心理的側面の探索に興味を置き、異常な世界を構築した探偵小説」を変格と称したのだが、この変格の代表格に江戸川乱歩横溝正史とともに挙げられるのが小酒井不木らしい。

また不木は江戸川乱歩のデビュー作である二銭銅貨を激賞し、生涯彼を激励し後押しした。彼自身も森下雨村の呼びかけで乱歩以後の日本探偵文壇を盛り上げるべく少年探偵小説を執筆した。

不木の本職は東北帝国大学の教授で専門は生理学と血清学。本書はそんな不木がその博覧強記な科学・犯罪・毒・文学の知識を余すことなく発揮した犯罪学の研究書である。

そもそも本書が執筆された1920年代は日本において系統立てられた犯罪学の著作は少なく、本書はそのはしりだった。表題の殺人論では原始人類の殺人に始まり、変態心理的殺人や迷信による殺人、殺人者の容貌や心理、殺人の動機、殺人の方法、屍体の現象などの項目が実在のケースから文学作品においてまで縦横に列挙、考察がなされている。

他にも彼の専門の毒物による毒殺事件を歴史的・科学的・文学的に考察した毒及び毒殺の研究が収録されている他に西洋の探偵や錬金術、拷問などについても書かれている。

解説の長山靖生をして万有博士と称される不木だが、その内容は流石に100年近く前に書かれただけあって現在の科学から鑑みると誤謬や差別的な内容を多く含んでいる。特に殺人者の容貌に関しては「それって要するに誰にでも当てはまるんじゃ…」って感じだし、女性の殺人者に関してはとても女性にはいどうぞと読ませられるような内容ではない。

しかし、長山は解説の中で以下のように書いている。

「当時の探偵小説は、単純に謎解きの物語ということのできない諸傾向を帯びていた。謎解きは探偵小説の結末として必要不可欠な要素ではなく、むしろ解かれ得ない謎にこそ力点が置かれる風潮にあった。(中略)つまり、探偵小説とは、謎と謎解きの狭間で揺れる重層的な曖昧さ、危うい均衡の文学だったのであり、二〇年代的言説のなかでいえば、モダンな幾何学的思考とエロ・グロ・ナンセンスの情念の接点に当たるものだったである」

この言葉の通り、探偵小説は登場する事件を単なるパズルとして扱うだけの小説ではない。不木の犯罪学の考証は人間が犯罪を起こすメカニズムと心理に深くメスを入れながらもその全てを明快に割り切ってはいない。人間の解かれ得ぬ謎の陰を感じさせる余情がある。それは乱歩の時代の探偵小説の面白さの核に通じるものがあると感じる。

いまだ犯罪学が発展途上だった日本においてこれだけ系統立てて書かれた作品はなかったであろうし、本書や不木の活動が後の探偵小説に与えた影響は大きかったことだろう。この知識を彼がどう自身の探偵小説の中に活かしたのか、興味が尽きない。

江戸川乱歩横溝正史が成長過程であった過日に大きな足跡を残した大人物の片鱗を知るにうってつけの一冊だった。いいお買い物でした。

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