「動く標的」ロス・マクドナルド

 

作者の生み出した私立探偵リュウ・アーチャーのシリーズ第1作。本作はポール・ニューマン主演で映画化され、彼は先に売れっ子作家となっていた妻のマーガレット・ミラーに肩を並べることとなる。

美しい渓谷の街サンタ・テレサを訪れた私立探偵のリュウ・アーチャー。石油業界の大物のサンプソンの夫人エレインから受けた依頼はロサンゼルスの空港から消えた夫の行方を捜索してほしい、というものだった。旧知の元地方検事と元軍人のパイロット、サンプソンの成熟過程の美しい娘などから話を聞くうちにきな臭さを感じた彼はハリウッドの裏側に足を踏み入れる。その過程でエレインの元にサンプソン本人の署名入りの手紙が届く。その内容は10万ドルを用意しろ、というものだった。これは誘拐なのか?動く標的のように二転三転する事態に翻弄されるアーチャーの前にいくつもの死体が転がる…。

後に悲しき運命の傍観者であり、解放者ともなっていくリュウ・アーチャーだがその第1作はまだその片鱗を覗かせる程度で、従来のタフな私立探偵の紋切り型なキャラクターから完全に脱し切れていないように感じられる。本作の彼は事件の中心に拳銃片手に踏み込んで行き、ゴロツキを殺めてしまう場面もある。また道に迷う人々に投げかける言葉も少し説教臭い。中期以降の彼のイメージを知っていると少し鼻白む。

しかし、後の人間の全てに諦めを感じながらも傷ついた人間にそっと寄り添う彼のアイデンティティを感じさせる言葉の数々は読ませる。

「昔は世の中の人間というのはふたつに分けられると思っていた。善人と悪人にね」

「しかし、悪というのはそう単純じゃない。邪悪さは誰もが持っているものだ。ただ、それが行動に移されるかどうかは、実に多くの要因に拠っている。環境、機会、経済的なプレッシャー、不運、悪い友達」

「私の仕事の大半は人を見ることだ。人を見て判断することだ」

本作のアーチャーはよく自分のことを話す。それこそ彼が何度も喋りすぎている、と毒づくほどに。だが、先にも言ったがこの言葉に彼のアイデンティティがある。本書はリュウ・アーチャーという男の名刺だと言えるかもしれない。

事件を取り囲む登場人物も個性豊かだ。年若い娘への恋に盲目となっている中年の地方検事、戦争から抜け出せていない色男のパイロット、その二人の間で思わせぶりな態度を見せる未成熟な美しい娘。ハリウッドに忘れかけられ占星術にのめり込む中年女優、冷酷な黒社会の大物、宗教を隠れ蓑にした詐欺師など個性の濃いキャラクターたちを入れ替わり立ち替わりさせながらも渋滞させることなく描いている。そして、そのキャラクター性を巧妙に裏切るようなストーリー運びにも唸らされる。

中期三部作などに比べるとやはり物語も捻りが足りないと感じるが、それでも結末は意外な着地を見せているし、後のリュウ・アーチャーという男を形作る上で欠かせない布石が多くある。映画版を観てみたくなるし、ほかのシリーズ作品もまた違った読め方がすると思う。先日、シリーズ最終作のブルー・ハンマーもようやく手に入ったことだし、そこを目指して未読の作品を埋めていきたい。

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