「暁の死線」ウィリアム・アイリッシュ


その男は彼女にとって一枚の桃色をしたダンスの切符でしかなかった。それも、二つにちぎった使用済みの半券。一枚十セントのなかから彼女の手にはいるニセント半の歩合。一晩じゅう、床の上いっぱいに、彼女の足をぐいぐい押しつづける一対の足。

 

物語はこのような書き出しで始まる。
ニューヨークの場末のダンスホールで男相手に踊るダンサーのブリッキーは故郷に背を向けて足を踏み入れた大都会に抱いた憧れと夢に敗れ、諦めと絶望の底から抜け出せずにいた。ホールの窓越しに見えるパラマウントの時計塔を友に、日々遅々と過ぎ行く時間をやり過ごしていた彼女の目の前にひとりの男が現れる。心ここに在らずの様子で大量に購入したダンスの切符を持て余した男はブリッキーと踊り、暴漢に襲われそうになった彼女を救い出す。当初は先述の通り、数多の男の中のひとりでしかなかった彼を成り行きで家に上げることになったブリッキーは男が彼女の故郷の生家の裏に住む青年・クインであることが分かると意気投合を果たす。ブリッキーと同様に大都会に夢敗れた彼を前にして、これを故郷へと戻る千載一遇の機会と感じた彼女はクインにその計画を持ちかけるが、クインは彼女と出会う前にとある屋敷で盗みを働いたことを告白する。

このままでは彼は捕まってしまう。そして、故郷へ行くバスは4時間後に行ってしまう。ブリッキーはバスの出発までに屋敷で盗んだ金を戻し、そのまま自分とニューヨークを離れるよう彼を説得する。説得に応じた彼と屋敷へとやってきた彼女であったが、屋敷ではひとりの男が殺されていた。ブリッキーとクインは状況証拠から現場にはふたりの男女がいたことを見出し、クインの容疑を晴らしてニューヨークから逃れるために殺人犯を捜すために夜の大都会へと踏み出すのだった…。

本作では各章の頭に時計のイラストが挿入されていて、そこに刻まれた時刻が物語とともに推移していく形式を取っている。まず、主人公のひとりであるブリッキーがいかに自身の境遇に腐っているかが描かれいる。ブリッキーは都会が魔物のごとく狡猾に足を引っ張り、自身の運命を弄んでいると思い込んで、都会に自身の破滅という褒美を与えないように必死に抗っている。その絶望感とブリッキーの擦れ具合と言ったら凄まじいものがある。そこからもうひとりの主人公クインと出会うことによってその現状を打破できると感じた彼女のロマンチックなまでの心境の変化にはさらに心が踊る。

しかし、意を決して薄汚いアパートから踏み出したふたりを待っていたのはさらに残酷な運命であった。殺された男を前にまたもや絶望する彼らであったが、都会にこのまま破滅させられることから抗うことを決めた彼らは素人ながらにいくつもの証拠を必死に見出し、それぞれ犯人を追っていく。数々の徒労に時間を浪費しながら、やがて犯人へと肉薄していく様が刻々と目減りしていく残り時間と相まって格別なスリル感を与えてくれる。

表紙に描かれた時計に刻まれた時刻は午前6時15分。その時間に彼らが見た景色はどのようなものだったのだろうか。抜群の心情描写とスリル感がほんとに素晴らしい傑作だった。おススメです!

 

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書影。ラストまで読むとこの時計が違うものに見えてくる。

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ブリッキーの心の友、パラマウント・ビルの時計。またニューヨークで見てみたいものが増えた。

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作者のもうひとつの代表作。ひとりの男の死刑執行のタイムリミットまでに女を探し出す物語。