「キャッツ・アイ」R・オースティン・フリーマン


シャーロック・ホームズのライバルと言えば誰を思い浮かべるだろうか。犯罪界のナポレオンと謳われたモリアーティ教授か、それとも探偵としての顔も持つ神出鬼没の怪盗紳士アルセーヌ・ルパンであろうか。確かに彼らはホームズの好敵手と呼べる名悪党である。しかし、ライバルとは必ずしも敵対者ばかりではない。同業者にだってライバルはいる。名探偵シャーロック・ホームズという金字塔を打ち立てたストランド・マガジンに続かんと同時代のライバル各紙は競い合って推理小説を掲載し、名探偵を創造していった。

それから半世紀が過ぎて日本の創元推理文庫から「シャーロック・ホームズのライヴァルたち」として刊行された作品群にはジャック・フットレルの「思考機械」ことオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授、安楽椅子探偵の先駆けであるバロネス・オルツィの隅の老人、ドロシー・L・セイヤーズ貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿、アーネスト・ブラマの盲目の探偵マックス・カラドスなど錚々たる顔ぶれが揃った。その中の1人に並び立つのがストランドのライバル誌ピアスンズ・マガジンでホームズと人気を二分した名探偵で本作の主人公であるジョン・イヴリン・ソーンダイク博士だ。

物語は法廷弁護士のアンスティが帰宅途中に女性の悲鳴を聞くところから始まる。駆けつけてみるとそこには激しく組み合う男女の姿が。男は逃走し、残された女は脇腹を刺されていた。アンスティは女を連れて近くの邸に駆け込むとそこでは邸の主人が射殺されていた。現場は宝石のコレクションルームであり、強盗犯による単純な犯行かと思われた。しかし、盗まれたのは価値のない上に特徴があり、容易に換金することができない珍品ばかり。容疑者は女と組み合った小男、そしてアンスティが目撃した大男の2人。主人の弟でアンスティの知人であるローレンス卿は法医学者で共通の友人であるソーンダイク博士に事件捜査を依頼する。警察より優れた科学的知識と技術によって瞬く間に証拠を見つけ出していくソーンダイクであったが、彼は盗み出されたコレクションの一部、そして捜査中に発見した奇妙なマスコットからとある一族の謎めいた歴史と犯人像についても思考を巡らせていく。しかし、アンスティと次第に心を通わせていくようになった事件の目撃者であるウィニフレッドに犯人の魔の手は迫っていた…。

探偵が科学の知識に造詣が深いことはお約束とも言えるパターンだが、それはソーンダイクにも言える。ホームズもまあそうであるが、多少怪しいところがあるのに対し(御手洗潔はその辺、占星術殺人事件のときにこき下ろしまくって石岡くんを憤慨させている)、こちらはより進んだ科学的知識を披露している(作者のフリーマンが医師をしていたこともあるからだと思うがドイルだってお医者さんだったのに…)。そして思考機械ヴァン・ドゥーゼンとも似たタイプの探偵だが、あちらがホームズと同じくエキセントリックの権化なのに対し、ソーンダイクは非常に社交的で常識的である。正直なところ最前の2人に対してソーンダイクに抱いた第一印象は地味だなあ、という感じだった。

しかし、本作の語り手であるアンスティはソーンダイクをこのように評している。

 


とはいえ、ソーンダイクはーーほかならぬソーンダイクだ。寡黙で、自制心が強く、見かけの愛想はいいが、秘密主義で、真意が測りがたい男。思えば、彼はまさに今、オフィスに静かに座り、その晩のぞっとする事件にも動じることなく、落ち着いて新たな事案に全力を傾注している。危険を即座に見抜いたのも彼なら、〝害意ある贈り物〟をたちどころに見抜いたのも彼だというのに。報告書に集中する彼のことを考えると、その冷静さに驚くとともに、ほとんど見えざるデータから推論を引き出す驚異的な能力を発揮した数々の事件を思い起こし、私にはいまだにすべてが暗闇の中にあるように思えても、彼にはなにか光明が見えるのではと期待せずにいられない。

 


ここにソーンダイクの全てが集約されているように思える。彼は周りの人間にどれだけ真相を急かされてもマイペースに自分の調査、実験を繰り返し、その成果から明らかになったこと以外は口を割ろうとしない。

「分析で裏付けを得るまで事実とは言えない。その点に自分自身が確信を持っていてもそれは心証にすぎないし、証拠として提示はできないよ。科学的に証明されたものは事実であり、それなら宣誓の上、証言台でも証言できる」

こんな具合だ。アンスティが秘密主義とやきもきさせられるのも痛いほどわかる。しかし、それは彼のこんな信念があるからだ。

「長年の経験から得た一番重要な原則の一つは、調査の初期段階においては、調査の対象となんらかの関わりのある事実は、関連の大小を問わず、どんな事実も軽んじたり無視してはならないということだ。それどころか、そうした事実は、なに一つ無関係なものとみなすわけにはいかない。あらゆるデータを集め、吟味するまでは、どんなデータも、その意味や価値を判断することはできないからね」

探偵役がやたらと推理を披露するのを渋り、勿体ぶったようにラストの場面で最高の演出とともに当事者全員の前で推理を意気揚々と披露することに懐疑的な人もいるだろう。その前にその頭脳を使っていれば事件を未然に防げたのではないか。「最初から犯人は分かっていました」ほんとか?

しかし、ソーンダイクの秘密主義はそんな物語のご都合は感じさせない。そして極めて慎重でありながら犯人の後手に回ることはほとんどなく、その凶行を未然に防ぐ防御力も持っている。私の自分が犯行に巻き込まれたときに依頼したい探偵ランキングの上位に一気に食い込んだ(他はフェル博士とかドルリー・レーンとか江神二郎とか)。

そして物語の中身も盛りだくさんである。聖書を用いた暗号やイギリス王室の歴史、男女のロマンスに拳銃片手の冒険小説のような一面も見せながら、最後はその全てを証明終わり(Q.E.D)と銘打たれた最終章にて綺麗な論理によって収束させる。その物語運びは実に鮮やかで読んでいて心地よかった。

ホームズに比べるとソーンダイクの活躍はまだまだ日本で知られていない。これから邦訳がもっと進めばいいのになあ、と思った。

 

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書影。冒頭に事件に登場する小物のイラストが挿入されていてとても親切。

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シャーロック・ホームズのライヴァルたちの1人、思考機械ことオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン博士。ソーンダイクと同じく科学を信奉する探偵だが、言動がとにかくエキセントリック。

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ライヴァルたちの2人目、紅はこべなどの歴史冒険小説も有名なバロネス・オルツィの隅の老人。安楽椅子探偵の先駆け。

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本家ホームズより四つの署名。秘宝をめぐる冒険、探偵の相棒が事件の渦中にいる女性と恋に落ちるなどの構図が本作とよく似ている。ラストのホームズの一言が印象的。

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江戸川乱歩の孤島の鬼。暗号やとある人物の手記を元に事件に迫っていく冒険は本作に通じるものがある。乱歩のエログロナンセンスが炸裂する大作。