「世界を売った男」陳浩基


とあるビルの一室で折り重なって死んでいる男女。その男女は夫婦で妻の腹の中には赤ん坊がいた。この2人と赤ん坊にどれほどの恨みがあったか犯人の凶刃は女の腹をも刺してあり、凄惨たる様子を示していた。その惨状にも怯むことなく彼は警察官としての正義を果たそうと死体を検めるが、そのとき女の死体の唇が妖艶に動くの目にする。「おつかれさま」と。

男が目を覚ますとそこは自分の車の中であった。ひどい二日酔いにうなされながら、昨夜あったことを思い出す男。男は香港の刑事で昨夜は同僚と喧嘩をし、そのままどこかのバーで飲んでいたようだ。ポケットには自分の名と銀行口座、5万元という金額、暗証番号のような数字が書かれたコースターが一枚。これは一体何なのか。彼の手帳にはビルで起きた殺人事件のことが記されている。引っ掛かりを抱えたまま警察署へ足を運ぶとそこは自分が知るものとはまるで様変わりした建物があった。受付で彼が知ったのはここが2009年の香港であること。ビルで殺人事件が起きたのは2003年のこと。そう一夜にして彼は6年間の記憶を失っていたのだ。

彼はそこで彼と会う約束をしていた女雑誌記者・廬沁宜ーー阿沁から殺人事件が解決済みであることを聞く。夫婦を殺したのは夫の不倫相手の女性の夫・林健笙で鬼健と呼ばれる札付きの前科者。現場に指紋などを残して逃亡した彼は奪ったタクシーで白昼の繁華街で暴走、通行人を幾人も巻き込んで自身もトラックに激突し、死亡していた。世間では事件は残忍な犯人による凶行ということで過去のものとなっていた。しかし、彼にとってはそれはまだ昨日のことだ。

記憶を失ったまま阿沁の事件追跡の記事取材のために事件の関係者のもとを尋ねることになった彼は、その過程で林健笙が犯人でないのではないか、と感じるようになる。彼女とともに事件を追いかけるうちに彼は事件の真相と自分に身に起きた真相に近づいていく…。

本作は13・67によって日本のミステリ読みの中でも一躍名前を知られるようになった香港本格ミステリ作家・陳浩基の長編デビュー作である。13・67でも香港を舞台に発生する多種多様な事件を流麗と描き、その事件らをひとりの男の歴史の円環として物語としてみせた巧者である作者だが、デビュー作である本作でもその腕は存分に発揮されている。事件は記憶を失った男がなぜ自分が記憶を失うこととなったのかを追い求める筋と過去に解決した殺人事件の真相を追う筋が二本の柱となって進行していくのであるが、この二本の柱がやがて一つに収束していく様は実に鮮やかで、そしてスリリングである。

タイトルの世界を売った男とはデヴィッド・ボウイの同名の曲(THE MAN SOLD THE WORLD)のことであるが、なぜこの曲がこの作品の名として冠されたのか。この曲が収録されたシングルのA面の曲の話なども面白いが、やはり歌詞と物語の相関が素晴らしいと思う。

 


なんたることか 私ではないのだ

自己を失うはずがない

あなたは向かい合っている 

世界を売った男と

 


失われた記憶が散逸し、自分の世界があやふやになっていく息苦しい展開とこの曲のメロディは実によくマッチしている。原曲の方も合わせて聴いてもらいたい。

https://youtu.be/cLoytewvn0g

本作を読んで改めて陳浩基は私が心から心酔する作家の一人となった。もっともっと彼の作品が読みたい。先日、13・67の翻訳者で台湾文学の翻訳者として活動されていた天野健太郎氏の訃報に触れて暗い気持ちになったばかりだが、彼に続くような翻訳者、そして華文ミステリ作家がもっと増えればいいなと思った。大傑作です!

 

f:id:gesumori:20190225211210j:image

書影。13・67に登場した地名が多く登場する地図が本作にも収録されている。

f:id:gesumori:20190225211437j:image

記憶を失った男が犯人捜しをする映画メメントクリストファー・ノーラン監督、ガイ・ピアース主演。時間を逆に遡っていくという点では13・67とも似ているかも知れない。大傑作。

f:id:gesumori:20190225211733j:image

解説の恩田陸が挙げていたMAD探偵。こちらは多重人格がテーマ。たしかに香港には変なミステリ映画が多い気がする。まだ観てないから観てみたい。

f:id:gesumori:20190225211947j:image

変な香港ミステリ映画といって思い出した名探偵ゴッド・アイ。盲目の探偵役をアンディ・ラウが怪演。蟹を食ってるアンディ・ラウがやばいとこが印象的。

f:id:gesumori:20190225212219j:image

1日しか記憶が持たない探偵を描いた西尾維新掟上今日子シリーズ。体にメモを書きまくるのはメメントと同じ。実写のガッキー版も可愛かった。