「ドルの向こう側」ロス・マクドナルド


アメリカのハードボイルド小説の御三家の一角、ロス・マクドナルドの産み出した探偵リュウ・アーチャーが登場する作品は二十作程度ある。わたしが読んだのはデビュー作である動く標的、象牙色の嘲笑、彼の黄金期と呼ばれる中期三作であるウィチャリー家の女、縞模様の霊柩車、さむけ、そして本作をあわせて六作目である。手元にまだ彼の遺作であるブルー・ハンマーが残っているが、これは最期のお楽しみとして置いておくとして、わたしにはまだ十四作もアーチャーの物語が残っている。幸せなようで、残酷なようにも感じられる。読むたびにこんな感傷に浸ってしまうくらいロスマクを読んでいる間の幸福感は他に替え難い。これを読み切ってしまうといよいよブルー・ハンマー以外の手元の未読の作品がなくなってしまう。それがさびしくてなんとなく今まで棚上げになっていたが、いよいよ手をつけることにした。

LAの私立探偵リュウ・アーチャーはラグナ・ペルディナにある少年たちの更生施設のスポンティ博士から脱走した少年トム・ヒルマンの捜索を依頼される。トムはガールフレンドの親の車を盗み、その車を大破させ、さらに両親と諍いを起こしてこの施設に入れられたものの、施設内で暴動未遂を起こし、そのまま姿をくらませたという。聞き取り調査中、施設に現れたトムの父親の口からトムが誘拐され、犯人から身代金を要求されたことを知るアーチャー。犯人からの電話を待つ間に、アーチャーはトムのガールフレンドであるステラやトムが入り浸っていたジャズ・バーの仲間たちからまだ見ぬトムの姿を描いていく。そして、トムと行動を共にする謎の年上の女性の存在を掴む。その女性はトムと関係があったのか。誘拐犯との関わりは。しかし、捜査線上で彼が目の当たりにしたのはモーテルで撲殺された女の死体であった・・・。

これまではどちらかと言えば郊外でのフィールドワークが多かったイメージだが、今作でアーチャーはLAの探偵らしくハリウッドを主戦場に捜査を行っている。そして、きらやかな映画産業の街が放つ光が落とす影に潜む欲望に突き動かされた裏社会の人物も登場する。ここまでは一見するとありきたりなハードボイルド小説的な舞台選びであるように思える。

しかし、中期以降のロスマクはアメリカにある平凡な家庭の中にある複雑な関係、心理に重心を置いており、これらの裏社会の片鱗はあくまでどこの世界にも見えないだけで存在するありきたりの暗闇の一部分にすぎないことがわかる。

そして、ふつうに生活している人々の日常の風景はリュウ・アーチャーの目というレンズを通し撮影され、そして簡潔だが巧みなマクドナルドの描写によって現像されることによって愛憎、利害関係、虚栄心などが鮮明に浮かび上がる。これは裏社会の抗争や政治の陰謀を描いている他のハードボイルド小説とは違う道筋をたどった作者だけが到達した境地だと思う。今作でも犯人は裏社会のギャングや財政界の大物でもない。複雑に交錯するプロットの果てに想像だにしない予想外の人物が最終局面で急浮上する。これはさむけのときに味わった以来の衝撃だった。そして、その動機も心理も今となっては前代未聞でこそはないもののこの世界に引き込まれた読者の心胆寒からしめるほどとびっきりに邪悪だ。こんなに邪悪な犯人、お目に掛かったことがないかもしれない。それくらい恐ろしいラストシーンだった。

家族から背を向けた息子、すべてを支配しようとする父親、家庭を維持することに摩滅しつつある母親。急激な時代の変化に隔絶された親と子の間で冷静な観察者であり続けるアーチャー。彼について印象的なシーンがある。

 


「人は現実を爆発させることはできないんだ。人々の人生は、一体となってくっついている。すべてが、他のすべてと結ばれている。要は、その結合部分を見つけることだ」

 彼女が多少の皮肉をこめて言った。「それが人生におけるあなたの使命ね、そうでしょう? あなたは人間には興味がないのよ、あなたは人間の間のつながりにしか興味がない。例えば――」侮辱する言葉を探していた。「――配管工のように」

 私は笑った。彼女はわずかにほほえんだ。目は相変わらず陰うつであった。

 


これはアーチャーが過去につながりがある女性と交わした会話である。探偵としての生き方が染みついてしまった彼はふつうの人のように人間と交わり合えず、一種違う境地に達してしまっている。そこを突かれた痛々しい言葉だ。

彼は家庭を持たず、相対する誰からも疑念を持たれてしまう。しかし、彼は粘り強く対話を繰り返し、やがて身近な人々からは聞き出し得ない情報を手に捜査を続けていく。彼は冷徹な一匹狼ではない。彼の根底にあるのはやさしさだ。やさしいからこそ、不正義に怒りを覚えるし、傷ついた人に寄り添おうとする。そこがたまらなくクールだし、スリリングだ。

そんな彼がラストに犯人に突きつける「ノー」の言葉。その高潔さ。これには痺れた。

とにかく前のめりに没頭したすばらしい作品だった。個人的にいままで読んだマクドナルド作品の中で一番好きかもしれない。ブルー・ハンマーにたどり着くまで、彼の作品を探し求め続けよう。そう思うとちょっと明日からが楽しみになった。

 

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書影。現在新訳で復刻されていないので手に入りにくい状況。大阪にあるミステリー専門古書店で出会った。タイトルの意味がわかったときの戦慄。たまりません。