「私が殺した少女」原尞

 

この度、14年ぶりの新作、それまでの明日が発売されたことが話題となっていたので始めて手に取った原尞だが目を剥くくらい面白く毎晩ページをめくる手が止まらなくなってしまった。和製ハードボイルドとか和製チャンドラーなんて言われる作家の中で僕が一番好きだったのは矢作俊彦だったけれども原尞も一気にそこに並んでしまった。

「まるで拾った宝くじが当たったように不運な一日は、一本の電話ではじまった」と始まる物語は新宿のはずれに事務所を構える私立探偵・沢崎が小説家・真壁の愛娘でバイオリンの天才少女の清香の誘拐事件の身代金運搬役に成り行きで選ばれるところから始まる。犯人からの指示のもと愛車のブルーバードで都内を走り回された沢崎は途中、謎の男二人組に襲撃され、身代金6000万円を奪われてしまう。犯人からの連絡は途絶え、沢崎は無力感に苛まれる。数日後、真壁の義兄の甲斐から彼の子供たちが誘拐に関わっていないことを調査してほしいという依頼を受けた沢崎は独自の捜査を開始するが…。

探偵と一口にいってもその類型はいくつか存在する。「名探偵みなを集めてさてと言い」というような論理と弁舌によって謎を解き明かすクレバーな名探偵もいる。一方、足による捜査と経験による勘によって謎にしがみついていくタフな探偵もいる。苗字しか明らかになっていないこの探偵は明らかに後者である。作者が敬愛するチャンドラーのフィリップ・マーロウもハメットのサム・スペードやコンティネンタル・オプもロス・マクドナルドリュウ・アーチャーもそうである。前者がエキセントリックな性格になりやすいのに対して、後者の探偵は忍耐強く常識的な性格なものが多い印象がある。作者も「沢崎は自分の理想でも分身でもない。彼は究極の常識人でこの世のあらゆる事象に偏見も予断も持っていない」と沢崎のキャラクターについて語っている。

その違いはなんだろうか。私はエキセントリックな名探偵たちの社会的な身分との差にその違いが現れやすいのではないかと思う。名探偵たちは生まれつき名家に生まれているか、自分の能力によって一角の地位を得ていることが多い。自分の持てる権力や能力によって難事件の解決という成功体験を得てきた彼らは自然と自信を身につけ、その功績から自分の思うがままに振る舞うことが許される。しかし、常識的な探偵たちはそうではない。警察や軍隊、あるいは普遍的な社会的役割から落伍し、自ら探偵という職を選んだ彼らは社会的に探偵が卑しい職業であるという偏見の中で疎まれ、時に裏社会で暴力に晒され、敗北を重ねていく。灰色の脳細胞を持たない彼らは自然に負け犬根性と常識の中でタフに生きることを身につけていく。

沢崎も敗北の歴史を持っている。かつての探偵の上司である渡辺が警察との捜査中に一億円と大量の覚醒剤を持ち逃げしてしまったのだ。そのことで警察とヤクザの両方から共犯の疑いをかけられ、拷問に近い取り調べを受けた過去が未だに彼のキャリアに大きな影を落としている。今回の事件でも誘拐の共犯を疑われ、かつての因縁の刑事に睨まれる。しかし、彼はそこで怯むことない。過去の負債を払うかのように自分の事件だと捜査に踏み込んでいく姿は痺れるくらいかっこいい。

彼らはタフだが冷徹な人非人ではない。非道な犯罪者は許さないが傷ついた者達には不器用な優しさを見せる。名探偵は犯罪者を白州に座らせ、奉行のように一段高いところにいるかのように振る舞うこともあるが傷ついた探偵は白州に座るものたちと同じ目線を持っている。私はそんな彼らが好きだ。

原尞は30年の文筆業の中でわずか5作の著作しか持っていない。しかし、彼が探偵・沢崎シリーズを十津川警部並の量で刊行していたら私の人生は沢崎だけで終わってしまうだろう。これくらいがちょうどいいのかもしれない。新たに面白いシリーズに出会えて多幸感が溢れている。和製ハードボイルドももっと掘ってみようと思った。

f:id:gesumori:20180630190240j:image