「きみといたい、朽ち果てるまで」坊木椎哉

 


「新人賞の原稿を読んで、こんなに泣いたのは初めてだった。ーー傑作である」

こう言ったのは綾辻行人である。本書は日本ホラー小説大賞の優秀賞を受賞したらしいが号泣する綾辻行人というヴィジュアルが想像すると強烈で、興味を惹かれたのでホラー小説にはあまり縁がないけど手に取ってみた。

国家権力にもそっぽを向かれ、脛に傷持つ者たちが最後に流れ着く無法の街・イタギリ。街が吐き出し続けるごみをおんぼろのリヤカーで収集するゴミ屋の少年・晴史は仲間とともに死体(ロク)を燃やして骨を川に捨てる毎日を送っていた。酒浸りの父親や劣悪な職場環境に少年らしさを摩耗させながらも彼は街の目抜き通りである極楽通りで似顔絵と体を売る物売りと呼ばれる売春婦の少女・シズクを遠くから眺めることで安らぎを得ていた。

迷路のようにビルが乱立するイタギリには摩訶不思議なものが溢れている。動く死体のシナズとシナズを燃やすと現れる影と呼ばれる黒い人型。殺した死体から内臓を抜き取る“肝喰い”と呼ばれる通り魔。人を喰う魔物が住むという2番街の丑首ビル。そして、描いた人物の未来が聴こえるというシズクの予言。

理解はできないイタギリでの現実と大人たちの世界となんとか折り合いをつけながら、やがて晴史はシズクと少しずつ距離を縮めていく。しかし、2人の運命はイタギリという街の毒素を取り込んで悲情な終局を迎える…。

面映くなりそうなタイトルと爽やかで可愛らしいイラストから流行りのラノベのような見た目をしているが、中身はそんな浮かれ気分のラノベおじさんをなかなかハードでグロテスクな描写でお出迎えしてくれる怪作だ。そうだ、15年前、私が路地裏ラノベ少年だった頃もこんな作品が沢山あった。谷川流の絶望系や西尾維新きみとぼくの壊れた世界桜庭一樹の砂糖菓子の弾丸、風見周殺×愛…。感受性豊かなスレたようでピュアっピュアな少年少女を戯画化された残酷な展開で打ちのめすような作品群。暗黒ラノベなんて呼ばれたりもした歪な作品たちが。

本作もその系統を受け継いでいる。作品の背骨は健気な少年・晴史とか弱く不思議な少女・シズクのボーイミーツガールだが、とにかく不穏な要素が多過ぎる。「おまえもしかしてまだ、このまま図書館デート楽しいな、で終わるとでも思ってるんじゃないかね?」と心の戸愚呂弟が言ってくるような濃厚な火薬の匂いにむせる。

話の展開を隠し切れていない部分や登場人物が説明口調すぎる部分もあるが、それでもグロテスクで趣味の悪い露悪的な展開の果てに待っていたラストは意外で、かなりユニークで、そして言い知れぬ美しさを感じた。なるほど、綾辻行人が泣いた、と言うのもわかる。私も少しほろっときた。受け付けられない人には天地が逆さまになっても受け付けられないだろうけどそれでも、このラストはちょっと他の人にはそうそう真似できないだろうし、このラストのために他の全ての瑕が気にならなくなるほどの美点だ。

舞台となるイタギリの街もなかなか素敵だ。統治者の存在しない無法の街を舞台にしたラノベと言えば成田良悟の越佐大橋シリーズの越佐大橋や十文字青薔薇のマリアの無統治国家の首都エルデンなどがあるが、これらがヒャッハー!な人たちに溢れた陽の街だとするとイタギリはひたすら顔の死んだ人たちが闊歩する陰の街だ。街には様々な業務形態の娼婦や筋者、ホームレス、それと変態心理を抱えた犯罪者と死体に溢れ、4K(キツい、汚い、危険、気が滅入る)の仕事に誰もが心をすり減らしている。この街が生み出す独特の臭気が晴史とシズクの異彩を放つピュアさを極めて引き立てている。

ノスタルジックな気持ちと新鮮な気分を同時に味わえる楽しい作品だった。たまには若い気分になってこういう作品を読んでみるのもいいもんです。最後に作中の一文を引用してこの雑文を終えようと思う。

 


行くあても縁もまるでなかったが、海を目指そうと思った。

どれだけ歩けばいいのかすら知らなかったものの、打ち寄せる波と潮風に出会える確信はあった。

俺はまだまだ生きていける。

少なくとも、海へ辿り着くまでは。

黄昏の空に走る緑色の閃光を、まだ見ていないのだから。

f:id:gesumori:20180831012815j:image

f:id:gesumori:20180831012819j:image

f:id:gesumori:20180831012841j:image

f:id:gesumori:20180831012845j:image

f:id:gesumori:20180831012900j:image

f:id:gesumori:20180831012915j:image

f:id:gesumori:20180831012919j:image

 

 

 

「動く標的」ロス・マクドナルド

 

作者の生み出した私立探偵リュウ・アーチャーのシリーズ第1作。本作はポール・ニューマン主演で映画化され、彼は先に売れっ子作家となっていた妻のマーガレット・ミラーに肩を並べることとなる。

美しい渓谷の街サンタ・テレサを訪れた私立探偵のリュウ・アーチャー。石油業界の大物のサンプソンの夫人エレインから受けた依頼はロサンゼルスの空港から消えた夫の行方を捜索してほしい、というものだった。旧知の元地方検事と元軍人のパイロット、サンプソンの成熟過程の美しい娘などから話を聞くうちにきな臭さを感じた彼はハリウッドの裏側に足を踏み入れる。その過程でエレインの元にサンプソン本人の署名入りの手紙が届く。その内容は10万ドルを用意しろ、というものだった。これは誘拐なのか?動く標的のように二転三転する事態に翻弄されるアーチャーの前にいくつもの死体が転がる…。

後に悲しき運命の傍観者であり、解放者ともなっていくリュウ・アーチャーだがその第1作はまだその片鱗を覗かせる程度で、従来のタフな私立探偵の紋切り型なキャラクターから完全に脱し切れていないように感じられる。本作の彼は事件の中心に拳銃片手に踏み込んで行き、ゴロツキを殺めてしまう場面もある。また道に迷う人々に投げかける言葉も少し説教臭い。中期以降の彼のイメージを知っていると少し鼻白む。

しかし、後の人間の全てに諦めを感じながらも傷ついた人間にそっと寄り添う彼のアイデンティティを感じさせる言葉の数々は読ませる。

「昔は世の中の人間というのはふたつに分けられると思っていた。善人と悪人にね」

「しかし、悪というのはそう単純じゃない。邪悪さは誰もが持っているものだ。ただ、それが行動に移されるかどうかは、実に多くの要因に拠っている。環境、機会、経済的なプレッシャー、不運、悪い友達」

「私の仕事の大半は人を見ることだ。人を見て判断することだ」

本作のアーチャーはよく自分のことを話す。それこそ彼が何度も喋りすぎている、と毒づくほどに。だが、先にも言ったがこの言葉に彼のアイデンティティがある。本書はリュウ・アーチャーという男の名刺だと言えるかもしれない。

事件を取り囲む登場人物も個性豊かだ。年若い娘への恋に盲目となっている中年の地方検事、戦争から抜け出せていない色男のパイロット、その二人の間で思わせぶりな態度を見せる未成熟な美しい娘。ハリウッドに忘れかけられ占星術にのめり込む中年女優、冷酷な黒社会の大物、宗教を隠れ蓑にした詐欺師など個性の濃いキャラクターたちを入れ替わり立ち替わりさせながらも渋滞させることなく描いている。そして、そのキャラクター性を巧妙に裏切るようなストーリー運びにも唸らされる。

中期三部作などに比べるとやはり物語も捻りが足りないと感じるが、それでも結末は意外な着地を見せているし、後のリュウ・アーチャーという男を形作る上で欠かせない布石が多くある。映画版を観てみたくなるし、ほかのシリーズ作品もまた違った読め方がすると思う。先日、シリーズ最終作のブルー・ハンマーもようやく手に入ったことだし、そこを目指して未読の作品を埋めていきたい。

f:id:gesumori:20180829015407j:image

f:id:gesumori:20180829015507j:image

「殺人論」小酒井不木

先日、長らく行きたかった京都の糺の森にて毎年行わなれている下鴨納涼古本まつりに大学時代の友人と後輩の三人で行ってきた。私は5年半にも及ぶ怠惰な大学生活を京都で送ってきたのだが、この催しにはとんと縁がなかった。それは大学時代の私が本に対しての情熱が薄かったこととひたすら出不精な生活を送っていたことが最大の理由であるが、左京区の人間がこの例年の催しを隠匿する傾向にもその原因が少しはあると思う。左京区人は毎年、まつりの最終日の昼過ぎに思い出したようにSNSに古本まつりの成果を報告するのだ。我々西側に暮らす人間は何度その投稿を見て、地団駄を踏んだことか!

さて、こんなどうしようもない偏見に満ちた思い出語りはどうでもいい。古本まつりは噂に聞いていた通り、実に楽しいまつりであった。見渡す限りに京都の古書店のテントが立ち並び、それぞれが本棚やワゴンにぎゅうぎゅうに本を陳列し、ビール片手の老店主やバイトの大学生くんたちが客を待ち構えている。その量たるや圧倒的で膨大な文字情報から会場を一周するのが体力と時間の限界であった。そんな中で数冊の本を購入したわけだが、きっとまだまだ出会えなかった本がたくさんあっただろう。いつかまた京都に暮らすことがあれば数日通って本を探し漁りたい。

くどくど回り道の末に本題の殺人論である。何軒目かのテントで本書を手に取ってのはそのはまずそのシンプルに強烈なタイトルが目につき、次に作者の名前が引っかかったからだ。

小酒井不木の名前は創元推理文庫の日本探偵小説全集の第1巻で黒岩涙香甲賀三郎とともに纏められているのは知っていた程度であった。代表作は人工心臓、恋愛曲線、疑問の黒枠、闘争など。残念ながらどれもあらすじすら知らなかった。

調べてみると甲賀三郎が「単純にトリックの面白さを追求した探偵小説」を本格と称したのに対し、「精神病理的、変態心理的側面の探索に興味を置き、異常な世界を構築した探偵小説」を変格と称したのだが、この変格の代表格に江戸川乱歩横溝正史とともに挙げられるのが小酒井不木らしい。

また不木は江戸川乱歩のデビュー作である二銭銅貨を激賞し、生涯彼を激励し後押しした。彼自身も森下雨村の呼びかけで乱歩以後の日本探偵文壇を盛り上げるべく少年探偵小説を執筆した。

不木の本職は東北帝国大学の教授で専門は生理学と血清学。本書はそんな不木がその博覧強記な科学・犯罪・毒・文学の知識を余すことなく発揮した犯罪学の研究書である。

そもそも本書が執筆された1920年代は日本において系統立てられた犯罪学の著作は少なく、本書はそのはしりだった。表題の殺人論では原始人類の殺人に始まり、変態心理的殺人や迷信による殺人、殺人者の容貌や心理、殺人の動機、殺人の方法、屍体の現象などの項目が実在のケースから文学作品においてまで縦横に列挙、考察がなされている。

他にも彼の専門の毒物による毒殺事件を歴史的・科学的・文学的に考察した毒及び毒殺の研究が収録されている他に西洋の探偵や錬金術、拷問などについても書かれている。

解説の長山靖生をして万有博士と称される不木だが、その内容は流石に100年近く前に書かれただけあって現在の科学から鑑みると誤謬や差別的な内容を多く含んでいる。特に殺人者の容貌に関しては「それって要するに誰にでも当てはまるんじゃ…」って感じだし、女性の殺人者に関してはとても女性にはいどうぞと読ませられるような内容ではない。

しかし、長山は解説の中で以下のように書いている。

「当時の探偵小説は、単純に謎解きの物語ということのできない諸傾向を帯びていた。謎解きは探偵小説の結末として必要不可欠な要素ではなく、むしろ解かれ得ない謎にこそ力点が置かれる風潮にあった。(中略)つまり、探偵小説とは、謎と謎解きの狭間で揺れる重層的な曖昧さ、危うい均衡の文学だったのであり、二〇年代的言説のなかでいえば、モダンな幾何学的思考とエロ・グロ・ナンセンスの情念の接点に当たるものだったである」

この言葉の通り、探偵小説は登場する事件を単なるパズルとして扱うだけの小説ではない。不木の犯罪学の考証は人間が犯罪を起こすメカニズムと心理に深くメスを入れながらもその全てを明快に割り切ってはいない。人間の解かれ得ぬ謎の陰を感じさせる余情がある。それは乱歩の時代の探偵小説の面白さの核に通じるものがあると感じる。

いまだ犯罪学が発展途上だった日本においてこれだけ系統立てて書かれた作品はなかったであろうし、本書や不木の活動が後の探偵小説に与えた影響は大きかったことだろう。この知識を彼がどう自身の探偵小説の中に活かしたのか、興味が尽きない。

江戸川乱歩横溝正史が成長過程であった過日に大きな足跡を残した大人物の片鱗を知るにうってつけの一冊だった。いいお買い物でした。

f:id:gesumori:20180823120912j:image
f:id:gesumori:20180823120916j:image
f:id:gesumori:20180823120907j:image

「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」

今更語るに野暮なトム・クルーズの代表作であるM:Iシリーズの第六作目である。前作ローグ・ネイションから引き続き、クリストファー・マッカリーが監督を務めている。

 

以下、多少のネタバレを含みます。

 

IMF(Impossible Mission Force:不可能作戦部隊)のエージェントであるイーサン・ハントのもとに組織から新たな指令が届く。奪われた三つのプルトニウムを回収し、核兵器製造を未然に防ぐという任務をルーサー、ベンジーの仲間とともに成功寸前まで漕ぎつけたイーサンだったが、突如謎の集団による襲撃を受け、仲間の命と任務を天秤にかけ、プルトニウムを奪われてしまう。イーサンたちはかつて彼らによって壊滅させられた犯罪組織“シンジケート”の残党である“アポストル”と謎の存在であるジョン・ラークと呼ばれる男による世界同時核兵器テロを防ぐべく、ホワイト・ウィドウという仲介屋の女と接触するためにパリへと赴く。その任務にはかねてよりIMFを危険視するCIAから監視のために長官肝入りのエージェントであるオーガスト・ウォーカーが同行していた。

紆余曲折を経て、ホワイト・ウィドウの信頼を得るため、以前IMFが逮捕したシンジケートのボス、ソロモン・レーンを脱走させることとなるイーサンたち。しかし、その任務中にかつてシンジケートに所属し、以前の任務で共闘した女スパイ・イルサと敵対することに。さらにウォーカーも表向きは協力しながらも裏で秘かな動きを見せていた…。

 

毎回トム・クルーズの命を心配してしまうまでに過激なスタントシーンが話題になる本シリーズだが(今作では骨折ってるらしい。マジで)、今回もその部分は健在である(数か月もヘイロー降下のシーンだけ撮り続けてたって言うんだからそのイカレ具合は本物だ)。しかし、今回は前作までのような「トムさん、歳の割によーやらはりますわー」って笑いながら観れる感じではなくなっている。本当に痛そうだし、なにより真に迫ったキツさがあった。トム・クルーズも今年で56歳(うちの父親と変わらねえ…)だし、前作でもそんなにありがたくなかったスタントシーン(前作はスパイ同士の騙し合いの方が抜群に面白かった)だし「もうやめとけばいいのに…」と思っていた。観る前までは。

今作のイーサン・ハントを観て真っ先に感じたのは“老い”だ。過酷な任務と様々な組織の思惑に肉体と精神を摩耗させ、悪夢にうなされ、意志に反して疲れ切った男の姿。もちろん年齢の割にはタフだし、走るのも速い。しかし、ゴースト・プロトコルのときに感じたような若さはもはやイーサンにはない。動作のひとつひとつに覚悟がいる感じ。

思い出したのはリーサル・ウェポン4のときのリッグス(メル・ギブソン)だ。歳とともに自慢だった射撃の腕も衰え、レーザーサイトに頼るようになった彼は若い暗殺者(ジェット・リー)に終始翻弄される。幸いにも彼はマータフ(ダニー・グローヴァー)という相棒のおかげで暗殺者には勝利し、シリーズに終止符を打つが、きっと彼はあの後もう刑事としては以前のように活躍はできなかっただろう。

今回の一連の真に迫った傷だらけのスタントシーンの数々から、イーサンにもそういうキャリアの終焉が近づいてきているように感じた。シリーズの前身であるスパイ大作戦に終止符を打ったイーサンであるから彼も自身の引き際には自ら潔く幕を引いてほしいものである。

 

今回も監督のマッカリーの作劇が素晴らしかった。ゴースト・プロトコルで確立したよくも悪くもエンタメ大作としての路線(大好きなんだけども!)を穏やかに修正してソリッドでクラシカルなスパイ映画路線にシリーズを引き戻した手腕は見事で、とても脚本なしで撮影現場でぶっつけでシーンを作っているとは信じられなかった。ぜひ次作も彼に監督をしてほしい。

 

散々トムのスタントにいちゃもんをつけてきた後で恐縮だが、それでもやっぱりトムのアクションは素晴らしかった。全力疾走のシーンの数々はどれも素晴らしかったが、特によかったのがラストのワンシーンだ。愛した女性にこれまでの自分の行い、そしてこれからも彼女に寄り添えないことに対する謝罪とともに敵の後を全力で追うイーサン。その全力疾走が持つ高潔さと悲壮さ。トムの全力疾走で泣かされる日が来るとは!毎作毎作全力で走ってきたトムだから産み出せた名シーンだと思う。

 

今作で初顔見世となったCIAのエージェント・ウォーカー役のヘンリー・カヴィルもよかった。彼自身コードネームU.N.C.L.E.のナポレオン・ソロ役以来のスパイ映画で今作でもCIAの人だったけど(なんと今作でも路地に挟まってた)今回の彼はソロのときとはまた違うニヒルで筋肉がパンッパンのマッチョスパイ(スーパーマンのときよりパンッパンだった)でパンチが重そうな感じが最高だった。イーサンとウォーカーのふたりがトイレで謎の中国人(めちゃくちゃ強い。なぜか今作で一番強い。アリババの陰謀か)も最高。ここだけでもこの映画観る価値ある。そういやU.N.C.L.E.でもトイレぶっ壊してたなあ…。っていうかU.N.C.L.E.の続きまだかなあ…。

 

みんな大好きサイモン・ペッグのベンジーもドジっ子でかわいかった。

そして前作から続投の悪役ソロモン・レーン役のショーン・ハリスはあいかわらず声がカサカサだった。

 

「ミッションコンプリーッ!」\テテーン!/

って感じの気持ちいい快作ではないと思う。退屈だと思う人もいるだろうと思う。それでも私はこのソリッドでタフな手触りが大好物だった。そして、いつか来るトム・クルーズのM:Iの終りを考えずにはいられない。ぜひ劇場で観てほしい一作です。

f:id:gesumori:20180819034809j:imagef:id:gesumori:20180819034813j:image

f:id:gesumori:20180819034825j:image

f:id:gesumori:20180819034828j:image

「幽霊男」横溝正史

 

私たちの世代はやはり金田一少年世代なのでその祖父である金田一耕助も当然大好物である。しかし、長い間、横溝正史金田一耕助の作品群は読むもの、というより観るもの、というあまり褒められた読者ではなかった。というのも、金田一耕助と言えば黙っていても数年に一度は映像化され、その代表作はあらかた目にする機会に恵まれていたからである。

一番、最初に観たのは稲垣吾郎主演の八つ墓村でそれはもう熱狂した記憶がある。女王蜂も吾郎ちゃんだった(旅先で流し観だったからほとんど覚えてないけど確かミッチーも出てたよね)。

次は石坂浩二金田一。四作の中だったら悪魔の手毬唄がいちばんのお気に入りだ。磯川警部役の若山富三郎の渋さが堪らず、未だに岡山県の総社の側を通るたびにあの映画のラストを思い出さずにいられない。先日NHKで石坂版を放映したのも録画したし、同局で放送した深読み読書会の内容も良かったので原書も今すぐ読みたい。

最近だとナイロン100℃喜安浩平脚本の二人の金田一もよかった。長谷川博己の獄門島と吉岡秀忠の悪魔が来たりて笛を吹くだ。両作とも主演2人を当て書きしたようなテイストの違いが楽しく、動の長谷川金田一、静の吉岡金田一という趣だった。原作からの改変に賛否両論あったみたいだけど、個人的に非常に楽しめた。次は八つ墓村をやるつもりらしい。誰が金田一をやるのか今から楽しみだ。

池松壮亮主演の金田一喜安浩平の岡山モノと違い、戦後・東京の探偵という感じが良かった(第3話の百日紅の下にてだけ録画に失敗した。悔しい)。満島ひかり主演の1925年の明智小五郎も大変好みだったので、NHKさんにはこのテイストとボリューム感のドラマを定期的に作っていってほしい。

くどくどと語ってきたが、要するに私はほとんど横溝正史の作品を活字で読んだことがない、ということに尽きる。そうするとまた名作未読コンプレックスがムクムクと湧き上がってくるもので、そそくさと本屋へ走った。

本屋で横溝正史の棚をずらっと見て、さて、何を読もうと思った。既知の名作を活字で追うのも楽しいが、どうせなら真っ新な驚きもほしい。そこで全く前情報のない本書、幽霊男を読むことにした。

神田・神保町の裏通りにあるキワモノのヌードモデル仲介会社・共栄美術倶楽部。そこに現れたのは異様な面相をした男。男は佐川幽霊男と名乗る。ひとりのヌードモデルと契約を交わした彼は自らのアトリエにモデルを連れ込む。行方が知れなくなったモデルを心配した共栄美術倶楽部の幹部たちとモデル仲間たちはやがてとあるホテルの一室で血塗れで惨たらしく殺害されたモデルを発見する。

幽霊男として巷を震撼させた男は当局を嘲笑うように更なる暗躍を見せるが、やがて金田一耕助がその捜査に加わって…。

金田一と言えば岡山モノをはじめとする田舎の農村などで起こる殺人事件を真っ先に想像するが、今回は徹頭徹尾、都会の劇場型犯罪である。不気味で足のない幽霊の如く捜査の端緒を掴ませない幽霊男の大胆で残忍な犯行は抜群の怪奇趣味でグイグイ読ませる。思い出さずにいられないのが横溝の盟友・江戸川乱歩一寸法師海野十三の蝿男である。

本格推理小説と言うよりは戦後の探偵小説という趣で、岡山モノの名作などと比べると作品も小粒で犯罪者の叙情もあまりない気がしなくもないが、徹頭徹尾の悪人で犯罪の演出を楽しむ犯人像はいっそ清々しい。ラストの楽しそうに自らの犯罪について語る幽霊男の姿はなかなか印象的だ。ほかの登場人物や小道具の数々も楽しい。

角川文庫のあらすじにある「妖気漂う原色怪奇まんだら」という説明が非常にしっくりくる古き良き探偵小説といった趣だし、1日もあれば読めるくらいサラッとした作品だ。楽しかった。

f:id:gesumori:20180730191730j:image

f:id:gesumori:20180730192017j:image

f:id:gesumori:20180730192021j:image

f:id:gesumori:20180730192211j:imagef:id:gesumori:20180730192216j:imagef:id:gesumori:20180730192317j:image

f:id:gesumori:20180730192222j:image

 

 

 

「IQ」ジョー・イデ

 

日系人作家ジョー・イデのデビュー作で、エドガー賞の最優秀長編賞にノミネートされたのを皮切りにアンソニー賞、シェイマス賞、マカヴィティ賞のミステリ新人賞を総なめにした話題の作品だ。

アイゼイア・クィンターベイ。LAのロングビーチの黒人コミュティにひとりで暮らす寡黙な黒人青年。様々な職歴において手にした豊富な知識と器用な手先、そして類稀なる頭脳と観察眼を持つ。彼の現在の職業は探偵。人は彼をIQと呼ぶ。

過去の因縁から大金が必要となった彼はかつてのルームメイトにして裏社会での相棒で現在はギャングから足を洗ったビジネスマンであるドットソンから大口の依頼を受ける。それは黒人大物ラッパーの命を狙う殺し屋の雇い主を突き止めること。ラッパーの家の防犯カメラに映った殺し屋は並外れて巨大な闘犬を連れた不気味な男だった。ドットソンとともに調査に乗り出すIQだったが…。

あらすじだけを書き出すと一見、アメリカのハードボイルド調な探偵小説のような趣だが、その手触りは少し異なる。IQは従来のハードボイルド小説のタフで常識的な探偵とは異なり、天才型の名探偵なのだ。それもシャーロック・ホームズを彷彿とさせるような、人間の癖や身体的特徴から瞬時にその人間の性質を言い当てることができるような。ホームズは現場に残された煙草の灰を見ただけで犯人の性質を言い当てるが、IQは車を一瞥するだけでそのドライバーの性質を言い当てる。作者自身も幼いときからホームズの物語に熱中し、IQのことを「フッド(貧困家庭が多い黒人街)のシャーロック・ホームズ」だと語るくらいそのキャラ造形に深い影響を受けている。この天才型名探偵は最近のアメリカのミステリ小説では少し珍しいタイプのように感じた。

物語は現在と過去の二本の時間軸で進行する。現在の時間で起こるラッパーを狙う殺し屋を追う物語と、過去の時間で人生に躓いて犯罪者と堕したアイゼイアがやがてIQと呼ばれる名探偵へと生まれ変わるまでの物語だ。この現在と過去の物語がひとりの青年の姿を描いていく形式はスティーヴン・ハミルトンの解錠師を思い出させる。

解錠師のマイクも繊細で多感な少年であったが、アイゼイアも非常に繊細で独特の感性を有している。この世で最も尊敬する兄を失った彼は兄と約束した日向の世界で自分の才能を活かして生きることを投げ打ち、薄暗い裏社会へと自ら足を踏み入れていく。輝かしい才能を汚して歪めていく彼の姿は悲劇的だが、やがて途方も無い後悔を抱えることとなった彼は兄の亡霊に追い立てられるように自分の才能と人生に向き合っていく。その姿は崇高でとても気高い。

本作のワトスン役である元ギャングのビジネスマンにして料理上手の相棒ドットソンを始め、燃え尽き症候群の天才黒人ラッパーのカル、闘犬を従える元youTuberの殺し屋など登場するキャラクターの造形も現代的で魅力的だ。そして、LAの下町生まれ、黒人の友達に囲まれて育った日系人というユニークなアイデンティティを持つ作者が描くLAの黒人文化の描写も巧みで、ページを捲る手がグイグイ進む。ギャングスタ、ブラックミュージック、汚いスラングが好きな人にはたまらないだろう。

物語はIQが過去の因縁にひとつの区切りをつけたところで終わるが、そこからさらにまるでアメリカの連続ドラマのシーズン跨ぎのような物語の広がりを感じさせるラストを迎える。次作の日本での刊行も決定しているらしい。今から楽しみで仕方がない。

f:id:gesumori:20180724224526j:image

f:id:gesumori:20180724224620j:image

「フィルムノワール/黒色影片」矢作俊彦

 

神奈川県警捜査一課の刑事でありながら警察の規律や仲間意識に乏しいハードボイルドな一匹狼。今日は非番だと嘯き、周囲の声を聞き流して自分が狙いをつけた事件を追って横浜の街を歩く。その姿はまるで往年の私立探偵。日本のチャンドラー、矢作俊彦が生み出した刑事・二村永爾シリーズの10年ぶりの新作である。

警察の嘱託職員として一線を退いた二村は美貌の映画女優からある依頼を持ちかけられる。香港で映画監督をしていた彼女の父の幻の遺作がオークションにかけられることとなり、その買い付けに行った青年の行方が知れなくなっているという。青年の身柄と幻のフィルムの捜索を二村に依頼したいというのだ。その依頼を一度は断った二村であったが、横浜で中国人凶手の仕業と思われる殺人事件が続発し、その現場に居合わせながら犯人を逃してしまう。殺された被害者たちは消えた青年やフィルムと関係のある者ばかり。二村は香港へ飛ぶことを決める。しかし、香港で彼を待っていたのはフィルム・ノワールのような香港の黒社会の大物や満州映画協会の亡霊、伝説の殺し屋が影を落とす映画の世界であった…。

本作はもちろんフィクションである。しかし、映画監督志望で大映で助監督を務めていたこともある作者の膨大な映画の知識と実在の人物(ラム・チェンインも出てくるんですよ!霊幻道士の!)の名前を織り込んで編まれた巧みな文章によって「もしかして、この映画って本当に存在したのでは…?」と思わせる説得力を生み出しされている。まるでかつて戦後の日本で大ヒットした実録モノのような趣きだ。

その強かな虚構の世界を構築していく上で欠かせない登場人物がいる。俳優・宍戸錠だ。現実でも作者と親交のある宍戸は作中でも殺し屋・エースのジョーを演じた伝説の殺し屋俳優としての貫禄を遺憾なく発揮してる上に日本と香港の映画の黄金時代を語る重要な役割を演じている。作中で二村と宍戸が映画について語るシーンはとても印象的だが、作者と普段こんな話したりしてるのかなー、と思ったりするとさらに楽しい。

馳星周をして「新しい比喩を考えるのは矢作さんに任せとけばいい」と言わしめる作者の巧みな筆致も健在だ。これまで中国を舞台にしたミステリと言えば同じ香港を舞台にした陳浩基の13・67やクリストファー・ウエストの黄昏の北京ぐらいしか読んだことはなかったが、重慶大厦を思わせる迷宮のようなビルの中や香港の街並みの描写も素晴らしい。横浜・横須賀の米軍基地や中華街の裏側を描いてきた作者の情景描写に飲まれたことのある読者なら垂涎の出来だろう。

表紙の江口寿史が描く宍戸錠のイラストも素晴らしい。見えるところに飾っておきたくなる格好良さだ。

異国の地において何が眞品(ホンモノ)で何が山寨パチモノ)なのか。映画に憑かれた人と金に憑かれた人と愛に憑かれた人の間をすり抜けながら二村は何を手にするのか。その結末は苦くはあるが美しい。

一級のハードボイルド小説である。かっこいい大人の男が見たければ間違いない一冊です。ぜひ!

f:id:gesumori:20180719164010j:image