「刑事マルティン・ベック 笑う警官」マイ・シューヴァル&ペール・ヴァール


ストックホルム症候群という言葉を聞いたことがあるだろうか。誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを持とうとする心理状態、翻ってメディアでは犯人に対して被害者が好意や同情的な態度を持つようになる状態を言うこともある。では、なぜこの心理的状態にストックホルムという都市の名を冠することとなったのか。それはこの症候群が広く知られるようになった銀行強盗人質立てこもり事件がこの地で起こったからである。

さて、この物語はそんな事件が起こる前の1967年のスウェーデンストックホルムで始まる。アメリカのベトナム戦争に対する反戦デモが大きな高まりを見せていた市内で警察庁殺人捜査課主任のマルティン・ベックは同僚のコルベリとチェスを楽しんでいた。街は要領の悪い同僚と新人が警備に駆り出され、市民の警察への悪感情が膨らみつつある最中であったが、彼らにとっては最も退屈で平和な夕べであった。しかし、そんな熱狂を避けるように閑静な街角で銃の乱射事件が発生する。現場は市営のダブルデッカー(二階建てバス)、被害者は9人の市民。スウェーデン史上類を見ない残忍な大量殺人事件の被害者の中にはベックやコルベリの同僚で若手の刑事、ステンストルムの姿があった。捜査に当たることとなったベックたちであったが、被害者たちの間につながりは見えず、犯人の手がかりもない状況に捜査は空転する。被害者たちの中にいた顔のない死体は誰なのか。唯一の生き残りが死の間際に遺した言葉の意味は。そしてステンストルムはなぜそのバスに乗っていたのか。犯人はどこへ消えたのか。その目的とは…。

本書はエド・マクベインの87分署シリーズと比肩する警察小説の金字塔である刑事マルティン・ベックシリーズの第4作にあたる。ひとりの名探偵の冴え渡る推理ではなく、ひとつの組織として警察がチームワークと地道な捜査によって事件の解明に当たる警察小説の金型のような物語で、日本の警察小説の名手として知られる今野敏をして警察小説の教科書と言わしめている。サブウェイ・パニックがんばれ!ベアーズウォルター・マッソーが舞台をサンフランシスコにして主役を演じたマシンガン・パニックの原作でもある。

私は映画化されたマシンガン・パニックを先に見ていた。というかマシンガン・パニックの原作だと知らずに本作を読んだ。序盤こそ「あれ?この話知ってるぞ?」という筋運びで事件が発生する。暗い道路を走るバスが突如として停車する。その車内では地獄のような大量殺人が起こっており、現場に顔を出した刑事が顔をしかめる。車内には同僚の刑事の死体が…。ここまではなんとなく覚えてる。しかし、その後の記憶は全く思い浮かばなかった。

というのも、その後の展開があまりにも地味で、展開が緩やかだからだ。刑事たちはそれぞれの手がかりから四方八方に散って捜査を展開するが、その成果は文中でそれぞれが藁に縋っているようだ、と言われるほどあまりに薄弱で、徒労の様相が濃い。手にした証拠も同僚に報告するのも躊躇われるほど遅々として進まない捜査に刑事たちだけでなく読者の方まで心が折れそうになる。

しかし、それでも物語を読み進められるのは手順を踏んで確かに足場を固めていくどこまでも愚直で堅実な捜査の描写の徹底さと個性豊かな刑事たちへと感情が乗っていく心地良さだろう。

妻との関係は冷え切り、娘に今年になってから笑った顔を見たことがないと言われ、風邪で鼻をすすっている中年刑事マルティン・ベック。ベックの相棒で行動力と衒学的な言葉を使うコルベリ。元軍人で船乗りという経歴を持つ粗暴なグンヴァルド・ラーソン。読んだものを決して忘れないメランダー。鼻の赤い平凡な男だが貧乏くじを引いてしまいがちなルン。そして、警官のポスターに使えそうなほど警察官らしい風貌でありながら先輩刑事たちにコンプレックスを持ち、神経質で寡黙な若者、ステンストルム。

彼らがストックホルムの陰鬱な寒空の下、悪態をつきながら、あるいは哲学的な思考を馳せながら、執念深く真相へと迫っていく緊張感。マクベインの87分署のメンバーとは一風違う風采の上がらない彼らがチームで辿り着いた真実。これは一読の価値がある。久しぶりに警察小説を堪能した。シリーズ通して読んでみたくなるいい導入になったと思う。

 

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書影。角川版は第4作である本作から新訳の刊行をスタートさせている。作者のシューヴァルとヴァールは夫婦の作家である。ロス・マクドナルドマーガレット・ミラーの夫婦、綾辻行人小野不由美の夫婦にエラリー・クイーンをさせるような奇跡だと思う。

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映像化作品のマシンガン・パニック。主演はウォルター・マッソー。チームものみたいな感じはそんなになかった気がする。あまり記憶にない。

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同じくウォルター・マッソーが主演のサブウェイ・パニック。こっちはよく覚えている。大名作。犯人たちのコードネームはタランティーノレザボア・ドッグスでも使われたほど印象的。デンゼル・ワシントン主演でリメイクもされた。お大事に!

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もうひとつの警察小説の金字塔、エド・マクベインの87分署シリーズの記念すべき第1作である警官嫌い。こちらは猛暑のアメリカが舞台。