「名探偵の証明」市川哲也

 

ひとつのジャンルが生まれ、多くの作品が編み出されて膨張していくうちにやがてジャンルは熟成していく。そうすると、どのジャンルでも内への問いかけ、ジャンルの根源にあるものへの考察に重きを置かれていくようになっていく。ミステリというジャンルにおいて、その根源とはなんだろうか。謎、そしてそれを解き明かす存在。すなわち、名探偵である。本書はそのタイトルに紛うことなき名探偵の証明問題、そのひとつの解答例である。

東京のとある島で起きた連続殺人事件。その現場に居合わせた男・屋敷啓次郎。彼は名探偵であった。相棒の警官・竜人と鮮やかに事件を解決した啓次郎は人生の絶頂にいた。手掛けた事件の解決率は100パーセント、部下と弟子を取り探偵事務所を営み、テレビ出演や出版などの仕事もつつがなく行い、道行く女子大生にサインを求められる。啓次郎の活躍に刺激を受けた推理小説家が作品を連発し、世は「新本格ブーム」と呼ばれる名探偵ブームを引き起こしていた。

心地よい疲れに包まれながら事務所で仮眠を取った啓次郎が次に眼を覚ますとそこは三十年後の世界、寂れた事務所のソファの上であった。過去の事件の捜査中に芽生えたトラウマから探偵業から半引退状態となった彼は妻とも別居中で内職をこなしながら、なんとか事務所の家賃を捻出するような有様であった。世間ではタレントとしても活躍する女名探偵・蜜柑花子が再び名探偵ブームを引き起こしており、還暦を迎えた屋敷啓次郎は既に過去の人であった。しかし、名探偵への執着を捨てきれない彼は竜人の発破を受け、再起をかけてある事件に挑戦する。その事件に選ばれた名探偵は二人。屋敷啓次郎と蜜柑花子であった…。

本作はミステリ小説、それも新本格の形式を取っているような顔をしている。実際にミステリ小説賞である鮎川哲也賞の受賞作でもある。しかし、謎解きそのものはこの作品の背骨とはなっていないように感じる。正直、中盤までは「おいおいそんな大層なことかこれ?」というくらい冷めた目で読んでいた。それでも最後まで読むのをやめなかったのはこの作品のもう一つの顔が気になったからだ。

それは名探偵とはいったい何者であるのか、という問いかけだ。名探偵であることの栄光はこれまで多くの作品で触れられてきたが、本作では名探偵であることの負の側面について比重が置かれている。啓次郎はかつては名探偵の代名詞として社会に認められた存在であったが、現在はかつての栄光が見る影もないほど零落している。その姿はあまりに切ない。鮎川賞の選者のひとりの辻真先は「超人的存在の名探偵を凡人の座にひきおろす試みは面白く、新鮮な切り口であった」と述べている。では、名探偵であることの負の側面とはなにか。

例えば、名探偵コナン金田一少年が散々言われてきたことだが、「お前らがどっか行くと殺人事件が起きるから家でじっとしてろ」という言説だが、本作ではその点について深く触れている。啓次郎や花子もその言葉に深く傷つき、悩んだ過去を持っている。また名探偵であるが故に犯人の抹殺の対象とされてしまうことの危険性についてもその問題に深く関わってくる。自分がいなければ事件は起きなかったのではないか、また自分が危険を犯してまで事件を解決しなくてもいずれ警察が事件を解決するのではないか。世界でふたりの名探偵は名探偵しか持ち得ない苦悩に侵されていく。

中盤の山場となる事件を経て、啓次郎は人生を見つめ直す。彼は凡人として日々を生き、犯罪と名探偵に背を向けて新たな人生を歩き出す。しかし、その足取りはだんだんと重くなっていく。そして、いくつかのキッカケを経て、彼は名探偵の使命を再び取り戻す。名探偵の負の側面を超えて、なお手放してはいけない尊い使命を。その使命に突き動かされたラストは無常感に満ちている。真犯人の慟哭も悲しかった。

カーの髑髏城のような名探偵VS名探偵!みたいな王道のミステリ小説を期待して読むと少し肩透かしを食らうような感じは否めない。食い足りなさもかなりある。それでも本作のミステリというジャンルの内への問いかけ、名探偵という存在への問いかけとしての側面は面白かったし、本作を一作目に皮切られた三部作でこの問いかけがどうなっていくのか、続きが気になる。

f:id:gesumori:20180906130629j:image